山手を襲った地震
2023年は「関東大震災100年」にあたります。1923年9月1日、マグニチュード7.9という「関東地震」によって、神奈川・東京を中心とする南関東では広範囲に大きな被害が発生しました。「関東大震災」です。山手も地震の揺れとその後の火災で壊滅的な被害を受けました。
NPO横浜山手アーカイブスでは、この大地震の画像記録を集め、本サイトにまとめました。
山手に被害をもたらした大きな地震は、「関東地震」以前にもありました。
一つは1894年に起こった「東京地震」で、山手では“煙突が倒壊したり、室内装飾品や食器が壊れる”被害が報告されています*1。
1909年4月の地震は、“大なる損傷家屋は96戸、小破損294戸、そのうち煙筒倒壊53(箇所)”と記録され*2、写真家カールルイス*3が被害の様子を撮影し、販売したようです。
1909年4月の地震被害の様子(写真は全てジュディ・デルグレッグ氏提供)
そして、1923年9月1日の関東大震災。
「The Japan Weekly Mail」では、この時の山手の被害を詳しく伝えています。
INCIDENTS ON THE BLUFF.
The scenes of destruction witnessed on the Bund and in the other parts of the city were duplicated on the Bluff, where, with the exception of two or three houses, the whole of the buildings have been demolished. In fact, this part of Yokohama is now almost unrecognisable.
Businessmen who got clear away from their offices made their way to the Bluff, to assure themselves as to the where abouts of relatives. The bridge near the Grand Hotel connecting the Settlement with the Bluff had dropped a distance of fifteen feet, and it was with very considerable difficulty and danger that this was crossed. Up Camp Hill landslides had already occurred, and at the top the Gaiety, and the British. and American Naval Hospitals had collapsed. Almost, without exception, private houses were down, and in some cases had already burst into flames. From the Gaiety right through to Temple Court everything was down.
The Allied Memorial Arch, unveiled by the Prince of Wales two years ago, had toppled over into the cemetery: the three churches-Christ Church, Union Church, and the Roman Catholic Church had toppled over, and were quickly on fire; while the huge Retz building, of several stories high, had toppled over on the houses beneath, carrying destruction and death in its wake. The same thing had occurred with the well-known Temple Court building, once known as the F. W. Horne residence, which had collapsed and fallen on to Jizozaka. The main road had broken away, showing huge cavities five and six feet wide, and some ten or twelve feet deep.
From many of the residences there were miraculous escapes. Women and children, pinned beneath wreckage, were dug out by husbands who bad hurried up from the Settlement, splendid aid being given by the Japanese servants, while the devotion of the amahs to their little charges evoked unstinted praise from those who witnessed their many acts of self-sacrifice and courage.
In some cases. unfortunately, the efforts to save life was unavailing. Fires had broken out almost as soon as the buildings collapsed, and when rescuers arrived they found but the charred bodies of members of their families.
In passing through Moto-machi to ascend the Bluff, it was found that at the various approaches numerous landslides had occurred, while at other points huge rents in the centre had divided the road to the extent of several feet. Those who visited the Bluff on Sunday and Monday described it as almost unregnisable. Off the main Bluff the Ferris Seminary, a well-known Girls’ School near the Union Church, had collapsed like cardboard, and the Principal, Miss Kuyper who had returned from Karuizawa on Friday evening to prepare for the autumn session, was crushed under the ruins, which later broke into flames.
The Japan Weekly Mail 1923.9.13
訳:ブラフでの出来事
外灘や市内の他の地域で目撃された破壊の光景は、ブラフでも再現され、2、3軒の家屋を除いて、すべての建物が取り壊された。実際、横浜のこの地域は、今ではほとんど認識できなくなっている。
オフィスから逃げ出したビジネスマンたちは、親戚の行方を確かめるためにブラフに向かった。居留地とブラフを結ぶグランドホテル近くの橋は、15フィートも落下しており、これを渡るのは非常に困難で危険なことだった。キャンプヒルではすでに地滑りが起きており、頂上ではゲーテ座、英国、米国海軍病院が崩壊していた。民家はほとんど例外なく倒壊し、すでに炎上しているところもあった。ゲーテ座からテンプルコートまで、すべてが倒壊していた。
2年前にプリンス・オブ・ウェールズによって除幕式が行われた外国人墓地祈念門は墓地に倒れ、3つの教会(キリスト教会、ユニオン教会、ローマ・カトリック教会)は倒壊し、すぐに火事になった。数階建ての巨大なレッツ・ビルは下の家々に倒れ、破壊と死をもたらした。同じことが、かつてF・W・ホーン邸として知られていた有名なテンプルコートの建物にも起こった。主要道路は崩壊し、幅5、6フィート、深さ10、12フィートの巨大な空洞が見られた。
多くの住宅から奇跡的な脱出があった。残骸の下敷きになっていた女性や子供たちは、居留地から急いで駆けつけた夫たちによって掘り出され、日本人の使用人たちによる見事な援助が行われた。また、アマたちの小さな子供たちへの献身は、彼らの自己犠牲と勇気の数々を目の当たりにした人々から惜しみない賞賛を浴びた。
残念なことに、人命救助の努力が報われないケースもあった。建物の倒壊とほぼ同時に火災が発生し、救助隊が到着したときには、黒焦げになった家族の遺体しか発見できなかったのだ。
ブラフに登るために元町を通過する際、様々なアプローチで多数の地滑りが発生していることがわかった。 日曜日と月曜日にブラフを訪れた人たちは、ほとんど無警戒の状態だと評した。ユニオン・チャーチの近くにある有名な女子校、フェリス女学校は厚紙のように崩れ落ち、秋季講習の準備のために金曜の夕方に軽井沢から戻った校長のカイパー女史は、廃墟の下敷きになり、後に炎に包まれた。
関東大震災直後(9月3日)に撮影された航空写真からも、山手の被害の大きさを読み取ることができます。
山手に隣接する日本人の居住地である北方町(白字で「北方」と書き込まれているあたり)は建物の形状がはっきりして、倒壊や焼失を免れているのがわかる一方、山手の住宅は崩壊しているためか建物の形状が見えず、白っぽく写っています。
「横濱震災航空寫眞帖 第参」表紙、P3北方・埋立地 横浜市中央図書館所蔵
これら明治期からの度重なる地震は、山手のまちを大きく変えました。
横浜開港資料館で閲覧できる山手の住所録ブラフディレクトリ*4を見ると、1894年と1895年、1909年近辺に住民が変わったり、山手から去ってしまい戻らなかった記録が読み取れます。
またブラフディレクトリそのものも作成されたのは1923年(1922年の住民を記載)までで、それ以降はありません。1923年関東大震災により山手から人々は去りました。後年戻ってきた人々は、山手以外の周辺地域にも多く暮らすようになりました。
今日我々は、当時の画像から地震の被害の大きさを知ることができます。残された画像がまちの歴史を物語っています。居留地時代の歴史を引き継ぎながらも、震災復興によって発展したまちが、今日の山手となっています。
- *1
- 「The Great Earthquake of 1894」Japan Gazett
- *2
- 「横浜貿易新報」(明治42年3月16日)
- *3
- 明治34年横浜にて、写真を撮り彩色、絵はがきとして英国や米国に向けて販売を始める。
日本人女性笹子サダと結婚し上大岡に居を構える。昭和17年没。 - *4
- 「The chronicle & directory for China, Japan and the Philippines. 1894&1895」
「The directory & chronicle for China, Japan, Corea, Indo-China, Straits Settlements, . . . &c. 1909」ほか
[参考:明治期の地震の記録]
1. 1894(明治27)年6月20日の地震「東京地震」
この地震について「風俗画報74号」(1894年7月号)の記載
「明治二十七年六月二十日は一天雲無く烈日煌々として焼くが如し気候大に平時に異なるが故に四民異変あらんことと恐れて戦々恐々たるの際其日二時四分十秒俄然大震災〇して地上の物転覆〇〇瓦飛び壁落ち老幼逃るを争ひ・・・」(4頁)
1894年の地震についてレポート「The Great Earthquake of 1894」(ジャパンガゼット社)
「On the Bluff the earthquake created the greatest excitement and fear among residents. At many of the houses chimneys came down with a crash and every resident is bewailing the loss of treasures curios and crockeryware. In some houses the walls have been completely denuded of ornaments.
At Mr. C. K. Marshall Martin’s house at 265 three chimneys came down; at Mr. J. E. Beale’s, No. 58, the chimney toppled over and fell through the roof; and chimneys also fell at Mr. J. A. Fraser’s, No.21, at No. 72, No. 85, the U.S.N. Hospital; while at the Convent one of the side walls has given way. A landship occurred at Mandarin Bluff.
Communication by train with Kobe is interrupted.」
訳:ブラフでは、地震は住民に最大の興奮と恐怖をもたらした。多くの家で煙突が音を立てて倒れ、住民は皆、宝物の珍品や食器を失ったことを嘆いている。いくつかの家では、壁から装飾品が完全になくなっていた。
C.K.マーシャル・マーチン氏の265番の家では3本の煙突が倒れ、J.E.ビール氏の58番では煙突が倒れて屋根を突き破り、J.A.フレイザー氏の家でも煙突が倒れた、21番、72番、85番、アメリカ海軍病院も煙突が倒れた;そして修道院では側壁が崩落した。マンダリン・ブラフでランドシップが発生。神戸との汽車が中断している。
1894年の地震についてレポート「The Great Earthquake of 1894」(ジャパンガゼット社)
「In the street up Yatozaka on the Bluff there were many fissures, the largest being 20 yards long and 5 inches wide. In the compound of 142 cracks were very numerous, some being 2 feet deep and 8 or 9 inches wide. Nos. 36 and 39 were so dangerously damaged that the Police sent firemen and demolished the buildings completely, as they were likely to causes injures to passersby. The Convent, No. 83, suffered greatly. In the damage of furniture, Mr. Smedley seems to have been one of the greatest sufferers, so far. Mrs. Hegt, 59, had a narrow escape with three children, a chimney top falling just behind her, and she fell to the ground unconscious. Fortunately, the explosive storage was quite safe. A rikisha-man of the Italian Consulate, Chuzo by name, was knocked down by a brick falling, and was removed to Negishi Hospital but died the same night. About 50 houses suffered more or less.
At the time the shock occurred Mr. J. Cain’s children were playing in the drawing room at No. 119. The shock brought down a chimney, which crashed through the roof and celling and fell into the room, causing considerable damage, but fortunately no-one was injured. At Mr. A. W. Payne’s house at No. 132 a chimney fell, and the walls were fractured, while in the garden fissures a foot deep and 20 feet long were caused.
The Bluff Police summoned their full staff and firemen, and made all preparations possible for a recurrence of the shocks.」( )
訳:断崖絶壁の谷戸坂の上り坂には多くの亀裂があり、最大のものは長さ20ヤード、幅5インチもあった。142番地の敷地内では亀裂が非常に多く、深さ2フィート、幅8、9インチのものもあった。36番と39番は非常に危険な損傷を受けていたため、警察は消防隊員を派遣し、通行人に怪我をさせる恐れがあるとして、建物を完全に取り壊した。83番修道院も大きな被害を受けた。家具の被害では、今のところスメドレー氏が最大の被害者の一人であるようだ。59番ヘフト夫人は、3人の子供を連れて危うく助かったが、煙突のてっぺんがすぐ後ろに落ちてきて、意識不明のまま地面に倒れた。幸い、(火薬庫)は無事だった。イタリア領事館の車夫、チュウゾウはレンガの落下で倒れ、根岸病院に運ばれたが、その晩死亡した。50軒ほどの家が多少なりとも被害を受けた。
衝撃が起こったとき、J.カイン氏の子供たちは119番の居間で遊んでいた。衝撃で煙突が倒れ、屋根と天井を突き破って部屋に落下し、かなりの被害をもたらしたが、幸いけが人はいなかった。132番のA・W・ペイン氏の家では煙突が倒れ、壁が割れ、庭では深さ1フィート、長さ20フィートの亀裂が生じた。
山手警察署は全職員と消防士を招集し、衝撃の再発に備え可能な限りの準備を整えた。
2. 1909(明治42)年3月13日の地震
当時発行されていた「横浜貿易新報」から山手の記載を抜粋
十七年來の大地震
人は一日の勞苦に疲れて漸やく睡眠に入らんとする一昨十三日の夜十一時廿九分五十九秒といふに物凄き地響と共に十六年來未曾有の強震動起り静かなる夜の眠りを驚ろかせたり此震動は発震後約十分間にして鎮静せしが内四分間は最も強烈にして地鳴りと共に上下動をなし人をして生きたる心地なからしめたるが此一瞬間に蒙りし市内各所の被害数は想像以上にありて其筋にても目下綿密なる調査中なるが今其大要を左に記さん
一般病院の破壊
山手本町八二一般病院は外人の創設に係る和洋折衷の二階建大家屋なるが強震の爲めに大震動を來し家根瓦の全部は美事に破壊崩落して見るも無慙の有様となり尚病室及び事務室調理所の如きは夥多しく傾斜し硝子窓は破壊されて所々に裂傷亀裂を生じ各室内の装置品を害せし事少なからず去れど時恰かも入院患者少なき折柄なれば此上の混雑を來さず只一時の災禍に依って斯る大破を生じたる迄なりき(中略)
煉瓦塀煙筒の崩壊
山手フェリス女學校の煉瓦煙筒は震動の起りて間もなく大鳴動と共に破壊崩落し屋根を貫ぬき各数場へ墜落せしなど夜分の事とて人の被害は免れたるも之れより生ずる損害僅少ならず・・・(中略)
▽山手町七二アウーン方煉瓦煙突も大崩壊し▽
(明治42年3月15日)
大地震續報
(中略)此他尚ほ外人側にて大害を蒙むりたるは山手町御獨逸領事館シーソン、ペル氏方にて夫れに亞くば同町三五米國人テーソン、同二一六英國人イー、シー、デビス、同三二澳國人カワチエン、同三三英人アーノルド方等にて右の中デビス方は煙筒倒壊の爲め室内装飾品を破壊され損害約五十圓なりとぞ
而して山手町外人居留地に於ける大なる損傷家屋は九十六戸、小破損二百九十四戸に及び内煙筒倒壊五十三、壁破壊十一、門柱及び門壁墜落四、右の損害に対する概算は約二万五千圓にて被害範囲の広き割合に其額僅少なるは畢竟家屋の全壊無きに基因すべし
(明治42年3月16日)